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新進の仏教学者、宮元啓一氏は、
旧来の絶対的権威であった東大仏教学者による、
唯物論的な仏教解釈に正当なる批判を加えています。

氏は、霊的世界には懐疑的な立場ですが、
因習的な仏教学界にあって、果敢に開拓する姿勢は評価されるべきです。




今日、わが国で行われている仏教文献学は、
大正時代から昭和時代にかけて、宇井伯寿博士が確立したものを基礎にしています。
そして、とりわけ初期仏教に関わる仏教文献学を精密化したのは、
宇井博士の愛弟子・中村元博士です。
その文献学は、二本の柱から成っています。 
一つは、複数の文献に共通する部分は成立が古く、そうでない部分は、
後世の仏教徒による加筆・挿入(伝統的にこれを「増広」という)であるとする柱、
もう一つは、韻文は成立が古く、散文は成立が新しいとする柱です。

仏教文献学者は、何か自分の頭で不明なところに遭遇すると、
すぐにこの個所は後世の増大に成るものだと、むやみやたらに言いたがります。
しかし、ゴータマ・ブッダの弟子、孫弟子、ひ孫弟子たちが、
バガヴァット(世尊)のことばを忘れたり、勝手に捏造したりすると考えるのは、
ことインドという場にあっては非常識なのです。

伝統的な仏教文献学は、徹底して消去法を取りますから、
ゴータマ・ブッダの世界は、拠って立つ場所すらもないほど狭く、貧相なものとなります。
そして、その結果として、ゴータマ・ブッダの真説探索において、
驚くほどニヒリスティックな態度を取ります。
中村博士のゴータマ・ブッダ論は、ゴータマ・ブッダ哲学解体論に他なりません。
仏教の開祖の哲学を解体して、何の益があるのでしょうか。

中村博士のように、ゴータマ・ブッダにはまとまった教義がなく、行き当たりばったりに、
人を導いたということだと考えてしまうと、じつに奇っ怪なことになります。
つまり、中村博士説では、法門はたくさんあるけれども、
そのどの門をくぐっても、あたかも映画のセットのように、
そこにあるのはただの空き地だということになるのです。
ゴータマ・ブッダの教えには、門ばかりやたらにあって肝心の家がないというのでは、
いったい仏教とはどういう教えなのか、困惑するほかはありません。

少なからぬ仏教学者は、信じがたい誤った文献学上の方法論を用い、
ゴータマ・ブッダの哲学を解体して無に帰せしめるのにやっきになっています。
そして、彼らは、自分の頭を、
初期仏典に示されているゴータマ・ブッダのことばに合わせようとするのではなく、
逆に、ゴータマ・ブッダのことばを自分の頭に合わせようとし、
合わないで余ってしまったゴータマ・ブッダのことばは、
後世の増広に成るものだと主張します。
このように、都合の悪いことはすべて後世の増広なる架空のことがらに押しつけ、
自分の頭だけによるご都合主義的な解釈をほしいままにするのです。
やたらに増広、増広と叫ぶ仏教学者には、注意してください。

ゴータマ・ブッダは、
身心のいずれも自己ではないという「非我」を説きましたが、
「自己(アートマン、魂)はある」とか、
「自己(アートマン、魂)はない」とか、と語ることは決してありませんでした。
ですから、ゴータマ・ブッダの教えの核心は「無我説」であるという理解は、
完全に間違っているのです。
ですから、仏滅後三百年ほど後に姿を現す理論的な無我説は、
ゴータマ・ブッダの真意が分からなくなった後世の仏教徒の、大いなる勇み足なのです。


「仏教かく始まりき」




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