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2008.10.30 アートマン
仏教無霊魂説の根拠は、
お釈迦さまが「アートマン」を否認している、という事実にあります。

しかしながら、仏典のなかには、
ジーヴァ(魂)、非物質領域の存在、神霊やヤッカ(鬼神)や悪魔、
化生の生けるもの、突如姿を現し消えていく霊的存在、
意によって自在に肉体を離れる幽体、肉体の死後に四方を飛びまわる識、
受胎の際に入るガンダッバ、などが説かれた箇所が多数散見されます。

これはどういうことでしょうか?

当時のインドの聖典ヴェーダを奉じるヨガ行者達は、不滅のアートマンを信じていました。

アートマンとは、このようなものです。


ヒンドゥー教にいう普遍的かつ唯一の霊魂。
肉体から独立した絶対的な我でもある。
感覚や思考や欲望のかなたにあるところから、
いわばそれはエゴを否定するものともいえる。
それはまた個人のすべての活動を根底から結びつけ、統一するが、
これらの活動とは個別的であれ、全体的であれ、いかなる従属関係にもない。
そのかぎりにおいて、アートマンはそれ自体未分化な絶対者ブラフマーと同一視される。
『ティヨ・ビンドゥ・ウパニシャド』は、こうした考えについて次のように説明している。
「…宇宙なり、ブラフマーなりをシンボルとするものは、あきらかにアートマンにほかならない」。
至高のアートマンは、知でもなければ非知でもない。
存在でも非在でもない。
それゆえこれを理解したり定義したりすることはできず、思考や記述の対象にもなりえない。
さらに、不変・不滅のものであり、終わりもなければ始まりもない。
ヨーガの苦行が向かおうとするのは、まさにこの心的な空であり、
個体的な条件を越えたところにある。
(『世界秘儀秘教辞典』)


すなわち、この思想では、
「人間の霊魂と神は同一であって、死後には直ちに、個別性は失われ絶対的存在と成る」、
のであって、極めて大雑把な霊魂観であることが分かります。

これが梵(神)我一如という思想です。


お釈迦さまは、天眼・宿命通力をもって、
生きとし生けるもの達が、生前になした行為、そのカルマにしたがって、
様々な階層の霊界に赴き、そしてまた地上に生まれては、幾度も転生を重ねている、
という生命の実相を霊視することができました。

このことは、
仏陀にしか知りえない認識困難な霊的真実でありました。

その悟りえた事実から、お釈迦さまは、
「人間は死ねば終りではない。
しかしながら、生前の姿そのままに死後存続するのでもない。
不変の絶対的な実体というものがあるわけではない。
また、霊魂は神そのものというのでもない。
そうではなく、カルマによって生成され転変する個性を持った本質、
霊的生命というべきものが、永遠に進化していくのだ。」と説かれたのです。

無霊魂主義の唯物論的立場でも、
死ねば誰もが神と一体になるという立場でも、仏道修行は無意味となるのです。

この両極端を排し、断常の中道を説いたのでありました。

ですから、
お釈迦さまは、無霊魂を説いたのではなく、
ヨガ行者の信じていた霊魂観を、生命の実相の観点から修正したと見るべきなのです。




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