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2008.11.01 霊の姿
現代では唯物科学は進歩したけれど、精神科学は退歩してしまいました。

わが国の仏教界でも、
霊がいるとかいないとか、いまだにそんなレベルの議論がおこなわれています。

どこで道に迷ってしまったのでしょう。

14世紀初頭、
ダンテはすでに「神曲」のなかで、登場人物にこのように語らせています。

煉獄に赴いたダンテの、
「ここでは食べる必要がないのにもかかわらず、餓鬼霊は何故あのように痩せているのか」、
という疑惑に対する、ローマ詩人スタティウスの霊による説明です。



渇いた脈管へは決して吸収されることなく、
謂わば卓上から、手つかずにとりのけられる食物のように、
あとに残る完全な血(精液)は、心臓にとどまり、
あらゆる肢体に満ちわたる功力を獲得すること、
なおし脈管の中を流れ、それらの肢体となる血のごときか。
その血、さらに純度を高め、口に出して言うよりは言わぬこそ奥床しい場所(男根)に下り、
やがてそこから、自然の容器(子宮)中なる他の血に滴り落つ。
二つの血、ここに相交わる。 
一つはもともと受動の性あり、
他の一つは、その発生の場所(心臓)の完きにより、能動の性をもつ。
あとなる血は、さきなる血と一つに結び、活動を開始する。
すなわち、まずそれを凝固をせ、
次に、経血として役立つ一貫性を付与したそのもの(女性の血)に、生命を吹きこむ。
能動の力をもつものは、草木のそれにも似た魂となるが、その相違を言えば、
前者すでに目的の岸に到り着いたのにひきかえ、後者はいまだ往相の分際。
途上の魂は盛んに活躍し、海綿のように動き感ずる段階を経たあと、
おのれを胚とするもろもろの力が発動する、諸機関の開発にとりかかる。
そして今やひろがり、子よ、今やふくらむ、
男親の心臓、すなわち自然が肢体の凡てのために備えする処から発した功力は。
しかし動物の状態から、物言う人間にどうしてなるかは、まだ君にわかっていない。
これこそ、君よりも賢い一哲人(アリストテレス)をさえ、かつて説き誤らせた一難問。
されば、かれは、魂と可能の知とは全くの別物と説いた、
その知の宿るにふさわしい、いかなる器官もかれには見えなかったという理由によって。
これから述べられる真理に対して、君の胸をひらき、しかと領解せよ、
胎児にあって脳髄のしくみ隅々まで完く整うや、
第一始動者(神)、自然のかくも巧みな技をめで、いたく喜び、みそなわし、
これに功力充ち満ちたる新しい霊を吹き入るる。
その霊、胎児に先在する能動の作用を、悉くおのれの実体に吸収して単一の魂となり、
生き、感じ、またおのれ自らの思惟を思惟する。
私のこれらの言葉を、君は怪しと訝るか。
ならば、太陽の熱が、葡萄から流れ出ずるその果汁と合体して、
葡萄酒となる事理をつらつら思え。
運命の女神の手もとに、もはや糸がなくなると、魂は肉の繋縛から離れるが、
そのとき魂は、人性をも神性をも、二つながら潜在させて携え去る。
ほかの機能は、あげて悉く沈黙するが、
記憶、思考、ならびに意志の活動は、かえってその前よりもはるかに鋭い。
どこにも留まりはせず、魂は、げに奇なるかな、
二つの岸(冥界の玄関)の一つにおのずと落ち、
ここに初めて、おのれの行くべき定めの道を知る。
占むべき場所が定まると、魂はおのが功力により、直ちにあたりを光被し、
姿をあらわすが、その様、そのほど、生前の肢体におけると全く同じ。
そして空気が水分をたっぷり含むと、それに映る太陽光線の作用により、
眼もあやな七彩の架橋(虹)を現出するように、
ここでは、あたりの空気が、そこに留まった魂の姿をうけて潜在させる、
その形のままに、おのれをかいつくろう。
かくて、火の動くところ、どこであろうとその火に焔が伴うように、
霊はその新しい形を引き具してゆく。
その新しい形から外観を得ているので、霊は影と呼ばれ、
その新しい形をよりどころとし、霊は、視覚に至るまであらゆる感覚の器官をつくる。
これによってわれらは語り、これによってわれらは笑い、
これによってわれらは涙し、溜息つく。
その溜息を、君は恐らく聞いたであろう、この山のそこにかしこに。
欲望、そのほかもろもろの情念が、われらを刺激するままに、影の形は変ってゆく。
これがすなわち、君の怪訝とする所以のもの。



 

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