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死は全ての終りだとすると、
思考力のある人間にとって、こんな残酷なことはありません。

そうであるのならば、死を考えることは恐怖以外の何ものでもないでしょう。

最終のゴールが無であるのならば、誰もが必然的に生きる意味を見失い鬱となります。

幸いにして、われわれには、永遠のいのちが与えられています。

この事実を知るならば、死は新たなる始まりとしての意味を持ちます。

誰もが祝福に満ちた死を迎える権利があるのです。




死とは、様々な生理系統が私たちの肉体の生命を維持できなくなったときにやってくるもの、
と説明することはできますが、それはもちろん死の一つの側面にすぎません。
もしも肉体的苦痛が大きければ、魂は肉体の死の少し前に肉体を離れることもありますが、
私たちが死と呼ぶのは、不滅不死の魂が、
死を免れ得ない肉体という乗り物をついに後にして、物質界と非物質界という、
同時に存在する二つの世界の間を移行する自然な瞬間のことであり、
それは生命における一通過点にすぎません。
私たちの多くは、死に関する考え方に宗教的教義や伝統の影響を受けています。
たとえばアフリカや地中海沿岸の国の人々にとって、
死は調和のとれた生の自然な一部にすぎず、
それは宇宙の原則に従って完墜なタイミングで起こります。

死に対しては抵抗も屈服もふさわしくないのです。
それよりもふさわしいのは、心を開いてそれを受け入れることです。
なぜなら、死と呼ばれるものを私たちが本当に理解するとき、
私たちは意識的に故郷へ帰る旅路の準備をし、そこから緊張と悲劇を手放して、
私たちの霊的な成長における次の、より自然な段階へ、すっと移行することができるからです。

人間としてのこの人生が、もしも単なる遠足だとしたら? 
私たちはこの地上で教育用のローラーコースターに乗り、
昇ったり沈んだりする人生経験や人間関係など、
私たちの究極の成長には欠くことのできないことを学んでいるのです。
喜びと光に満ちた魂の次元から見れば、この地上での生はかなりの暗闇であり、
私たちは、特に好きでもない教師から、
意識して学びたいとも思わないレッスンを苦しんで学んでいるように思えるかもしれません。
と同時に私たちはまた教師でもあるわけですが、生徒はおうおうにして学ぶのを嫌がるのです。
もちろん私たちには、一秒一秒を大切にし、
宇宙が日々私たちに与えてくれる様々な奇跡や学びを自分のものとすることで、
地上での生を、豊かで情熱的で恵みに満ちた冒険にすることが可能です。
つまり、私たちはみな、慎重に織りなされた神の秩序の一部ではあるのですが、
この地上は私たちの本当の居場所ではないのです。
私たちがここにいるのはほんのしばらくの間にすぎず、
学ぶこと、教えること、与えること、受け取ることをすべて終えたなら、
荷物をたたんで故郷に帰るときです―それがトランジション(死)です。
向こう側の世界に、素晴らしい真の姿で再び登場し、
私たちより先に故郷に戻っていった愛する人たちと再び出会う準備をするにあたって、
私たちはその帰郷の旅路を悲しく恐ろしいものと考えるのではなく、
喜びに満ちた期待、達成感と祝賀感をもってそれに臨むことができます。


ブレンダ・デーヴィス「過去世ソウルヒーリング」




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