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2008.11.04 ニルヴァーナ
仏教の理想、ニルヴァーナ(涅槃)。

それがしばしば虚無主義とも誤解されるのは、
その境地を言語で説明することが不可能であるからです。

それは内的次元の体験であります。




インドにおいては、神々はもはや、
礼拝者たちの外側に存在するものであるとは見られなくなっていた。
そういうものの代わりに、人々は真理の内的成就を達成しようと求めていたのである。
神々は、インドではもはやあまり重要でなくなっていた。
後に、神々よりも上だと思われるようになった宗教的人間が、
神々を凌駕することになるのであった。
それは人間の価値の驚くべき主張であったし、運命を支配しようという願望でもあった。
それは、この亜大陸の偉大な宗教的洞察であった。
ヒンドゥー教や仏教という新しい宗教は神々の存在を否定しなかったし、
人々が神々を礼拝するのを禁じたりしなかった。
彼らの考えにおいては、そのような抑圧や否定は有害であった。
そうする代わりに、ヒンドゥー教徒や仏教徒は、神々を超越する新しい道を求めていたのだ。

仏教徒が瞑想において至福を経験したり、あるいは超越の感覚を経験するときには、
彼らはこのことが超自然的存在との接触に由来するとは信じない。
そのような状態は人類にとって自然なのである。
つまり、そうした状態は、正しい生き方をし、
ヨーガのテクニックを学べば、誰にでも達成できるのである。
それゆえ、神に頼る代わりに、プッダは弟子たちに、自らを救えと促したのである。

ブッダは、苦からの脱却を勝ち取ることができると教えた。
それは生きとし生けるものへの憐れみに満ちた生活を送ることによって、
また優しく親切に、そして正確に語り行動しつつ、
心を曇らせる薬や酒のようなものをすべて控えることによって可能なのだ、というものであった。
彼はそれを発見したと主張した。
「わたしは、かつての時代の諸仏が歩んだ古来の道、古来の小道を見出した」と。
それは、異教の諸法則と同様に、
人生そのものの条件に内在する存在の本質的な構造と結びついていた。
カルマ(業)は、人間を無限の輪廻転生のサイクルヘと縛り付け、
連綿たる苦多き生のなかへ引き込む。
だがもし人間が、その自我中心の態度を改めるならば、自らの運命を変えることができる。
ブッダは輪廻の過程を、灯火を点す光になぞらえたが、
その最初の灯火から次の灯火が点され、さらに次々と点され続け、
最後には消えることのないものとなる。
もしある人が、その死に際してさえなお誤った態度で燃え続けるならば、
その人はただもう一つの灯火を点すだけである。
だがもし火が消されたならば、苦のサイクルは終わり、ニルヴァーナが達成される。
「ニルバーナ」は文字通りには、「冷めること」あるいは「消えること」を意味する。
しかし、それは単に消極的状態ではなく、仏教的生においては神に相似する役割りを果たす。
エドワード・コンゼが、その著『仏教―その本質と発達』において説明しているように、
仏教徒はしばしば、究極的リアリティーであるニルヴァーナを叙述するために、
有神論者たちが用いるのと同じイメージを用いる。
「われわれは、ニルヴァーナが永続的、安定的、不滅、不動、無量寿、
不死、不生、不生成であり、力、至福、幸福であり、確かな隠れ家、憩いの場、
揺るぎない安らぎの場、まことの真理、最高の現実であり、
善そのもの、最高の目標、永遠の、隠れたる計り知れぬ平安である、と告げられている。」

カレン・アームストロング「神の歴史」




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