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2008.11.06 説教について
神学部を卒業し、由緒ある大教会の牧師として説教を重ねてきたエマソンは、
「立派な牧師となるためには、牧師という職を辞さなければならない」として、
わずか三年半の在任期間で牧師職を辞めてしまいます。

しかし、その後も超絶主義者として、説教を続け、
「アメリカのルネサンス」とも言われる精神改革を成し遂げます。

エマソンは、牧師を辞任してからも、説教壇上の人でありました。

そのエマソンは、
自らも卒業したハーバード大学神学部の最上級生に、何と「説教」について説教しています。

この説教は、後に大変な論争を呼びました。

説教は、仏教でも大切な伝道行為であり、
愚僧も説教をしますが、これを読むと自分の説教が恥かしくなります。


奇蹟によって人を改心させようとすることは、魂の冒涜である。
真の改心をして、真のキリストとなることは、現在でもいつの時代でも、
美しい感情を受け入れることによってなさるべきである。
一般の人びとにとり、世界は、イエスのために存在しているように思われる。
そして彼らは、まだイエスの教えの意味を十分にのみ込んでいないので、
自分に、あるいは自分のなかの神に、立ち帰ることによって、
初めて永遠に成長してゆくことができるということがわかっていない。
何かを与えられることは、低い恩恵である。
自分で何かをする力を与えられることは、高い恩恵である。
魂に対する神の賜は、自分を誇り他を圧倒する、排他的な神聖さではなくして、
やさしい生来の善良な心、われわれが持っているような善良な心であり、
神の賜は、このわれわれの善良な心を持ち、成長するように、
励ますものであるということが、すべての人びとにわかる時が近づいている。
説教の俗悪な調子がいかに不法なものであるかは、
説教によって冒涜される魂にとってはもちろん、イエスにとっても歴然とした事実である。
説教者たちは、彼らがイエスの福音を喜ばしくないものとし、
イエスから、その美しい頭髪を刈り取り、天国の特質を奪い取っていることがわかっていない。

人びとは啓示について、まるで神は死んでいるかのように、
ずっと昔に与えられて、もう終ってしまったものとして口にするようになっている。
説教者が、信仰を害うようなことをいえば、彼は息の根を止められてしまい、
もっとも優れた団体である教会は不確かな不明瞭な声しか聞かれないところとなる。
精神だけが、教えることができる。
神を冒涜する者、肉欲に耽る者、嘘をつく者、
奴隷のようなものは、誰も、教えることができない。
ただ、持っている者が、与えることができ、存在する者が、創造することができる。
魂が上より降り、魂がその人を通して語る人にして初めて、教えることができる。
勇気、憐憫、愛情、知恵は教える力を持つ。
あらゆる人は、これらの天使に向って、その扉をあけることができる。
そうすると天使たちは、彼に言葉の賜を持ってくるであろう。
しかし書物に教えられたり、宗教会議の手先となったり、流行に導かれたりするままに、
また利害の命ずるままに、語ろうと志す人は、饒舌を弄する。
彼を黙らせなくてはならない。

われわれの教会の飢饉に対して、
すべての思慮ある人びとは、こころのつぶやきを抑えかねている。
また道徳性を培うことによってのみ与えられる慰安と希望と尊厳とを、
奪われていることを、彼らは嘆いているが、怠惰の眠りより目覚め、
千篇一律の日常生活の騒音を打ち破って、このつぶやきと嘆きの声を、
世間の人びとにきかすべき時が来ている。
説教者のこの偉大な永遠の務めは、果されていない。
説教とは道徳心を、いかにして人生の義務に対して用いるべきかを語るものである。
どれだけの教会のなかで、どれだけの預言者によって、
人びとは自分が無限の「魂」であって天地が彼の心のなかに入って来て、
彼が永久に神の魂を飲むものであることを、教えられているであろうか。
どこで、今、説教の声が高鳴り、その調べにより私の心を楽園につれ行き、
そうしてこの説教が天国より出たものであることをあかしているであろうか。
昔、人びとを誘ってすべてのものを、
父母、家、国、妻子を捨てて従わしめたあの言葉は、どこに聞こえているのであろうか。
私はどこで、道徳性に関するこの厳かな法則が、私の耳一杯に告げられるのを聴き、
私の最上の活動と情熱とを捧げて、自分が高められるのを感ずることができようか。
真の信仰の試金石は、信仰の力が、自然の法則が手の運動を統御するように、
魂を魅了し、これを支配するか否かにある。
真の信仰は、侵し難い力をもっているために、
われわれは喜んで服従し、服従することを名誉と思う程である。
この信仰は日の出、日没の折の光、飛び交う雲、歌う小鳥、草花のいぶきと融和している。
しかし今の牧師のする安息日の礼拝は、自然の光彩を失っていて、美わしいものではない。
われわれは礼拝が終ると喜びを感ずる。
われわれは教会の席に腰かけていても、牧師とは無関係に、自分たちだけのもっとずっと良い、
聖い、美わしい礼拝をすることができるし、実際そういうことをやっている。

さて祭壇の火はくすぶり、ほとんど消えかかっているが、
これにふたたび火を点すために、できるかぎりのことをしようではないか。
現在教会に悪弊がみられることは、明らかなところである。
問題はわれら何をなすべきかということに帰着する。
私は正直にいうが、新しい儀式と形式とをもって、礼拝を工夫し、
これを打ち建てようとするあらゆる試みは、むだなように思われる。
信仰がわれわれを造るので、われわれが信仰をつくるのではない。
そして信仰は、信仰自体の形式をつくる。
むしろ諸君が、新しい生命の息吹きを、既存の形式に吹き込んだ方がよい。
諸君が一たび活発に動けば、これらの形式は、
諸君の思うままになり、新しいものとなるからである。
堕落した形式を救うものは、一も魂、二も魂、永遠に魂である。
徳の脈搏が一つ打てば、形式という法王国全体を引き上げて、活を与えることができる。
二つの非常な強みをキリスト教は、われわれに与えてくれた。
第一は安息日、すなわち全世界の祝祭であって、その光は哲学者の部屋にも、
骨折仕事をしている屋根裏部屋にも、監獄の独房にも、同じように喜び迎えられて輝く、
そしていたる所で、下劣な者に対してさえも、精神的なものの尊厳を暗示する。
安息日を永遠に寺院としておかなければならない。
新しい愛、新しい信仰、新しい見解がこれを再建し、
人類にとって最初は輝かしいものであったこれを、さらにそれ以上のものとするであろう。
第二は、説教という制度である。
説教とは、人間が多くの人に向ってする話で、
本質上すべての機関、すべての形式のうちで、もっとも人が意のままにできるものである。
今や、いたる所で、説教壇で、講義室で、家で、畑で、人びとに招かれるなり、
諸君自らその機会をつくるなりして、諸君の人生と良心とが教えるままに、真理を語って、
待ちこがれ、力の失せた人びとのこころを、
新しい希望と啓示とで、力づけることができるのである。
私は新しい「教師」が現われて、これらの輝かしい法則を徹底的に追求して、
その結果この法則が一貫していることを、その整然とした完全な恩恵を、
世界が魂の鏡であることを、引力の法則と心の純潔とが同一であることを理解し、
「義務」が「科学」や「美」や「喜ぴ」と一つのものであることを、示すのを待ち望んでいる。


「神学部講演」




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