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2008.11.14 神的なるもの
理性を持った人類は、神について理解することが出来ます。

およそ思考をするものならば、神の存在が気になります。

事実、どんな時代、どんな場所においても人々は、神を求め続けてきました。

そして、その神的なるものは、様々に説明されてきました。

全ての宗教、哲学は、この神概念抜きには、語れません。

現代においても、この探求はいまだ終わっているわけではないのです。

思考停止した仏教者が陥っている無神論は、表層的なものであり、単なる虚無主義です。




キリスト教は、プラトン主義的な諸理念が支配的であったような世界において自己を確立した。
後にキリスト教の思想家たちが、彼ら自身の宗教的経験を説明しようとしたとき、
当然ながら彼らは、プロティノスおよび彼の後の異教的弟子たちの、
新プラトン主義的ヴィジョンに向かっていった。
非人格的で人間的な諸カテゴリーを超越した、
そして人間にとって自然であるような啓蒙(目覚め)という考えはまた、
プロティノスが学ぶのを切望していたインドのヒンドゥー教や仏教の理想にも近かった。
かくて、表層的な違いにもかかわらず、リアリティーに関する唯一神論的ヴィジョンと、
他のヴィジョンとの間には深遠な類似性があったのである。
人間が絶対的なるものを思惟するとき、ひじょうに似たような考えや経験を持つように思われる。
リアリティーに直面するとき感じる臨在感、エクスタシー、
畏怖の念―それが涅槃、一者、ブラフマン、あるいは神と呼ばれようと―は、自然であり、
人間によって無限に希求される心と認識の状態であるように思われる。

神の歴史において、
秘教的な真理と通俗的な真理との区別はきわめて重要であろう。
それは、ギリシア人キリスト教徒に限定されるべきものではなく、
ユダヤ教徒もムスリームも秘教的伝統を発展させることになるのだ。
ある宗教的洞察というものは、内的な共鳴を持っており、
それは各人によって、しかもその人自身の時において、
つまり瞑想―プラトンがテオーリアと呼んだもの―をしている間においてのみ、
了解されうるようなものなのである。
すべての宗教は、通常の概念やカテゴリーを超越した筆舌に尽くし難いリアリティーを、
志向するものであるがゆえに、「語り」は限界を持ち、混乱させるものである。
もし人々がこれらの真理を精神の目で「見る」ことがないならば、
いまだあまり経験を受けていない人々は、きわめて間違った見解を持ちやすい。
それゆえ、聖なる書物には、文字通りの意味のほかに霊的な意義というものがあり、
それは必ずしも常に明瞭に語りうるものとは限らないのである。
仏陀もまた一定の問いは「真っ当ではない」、つまり不適切であることを自覚していた。
なぜならそれらは言葉が届きうる領域を超えたリアリティーを志向しているからである。
それらを見出しうるのは、ただ瞑想という内面的な技術を通じてのみである。
ある意味ではわれわれは、それらを自分で創造しなければならないのだ。

「神」という言葉自体が不完全なものである。
なぜなら神は「神を超えた」ものであり、「存在を超えた神秘」だからである。
キリスト教徒は、いわゆる神が最高の存在、
つまり低位の諸存在のヒエラルキーの頂点に立つところの、
万物のうちの最高の存在などではないことを認識すべきである。
事物や人間は、知識の対象となりうる一つの別な実在として、
あるいは代替可能な存在として神に相対するのではない。
神は存在する諸物の一つではないし、
われわれの経験における他のいかなるものともまったく似ていないのだ。
事実、神を「無」と呼ぶ方がもっと正確である。


カレン・アームストロング「神の歴史」




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