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閉鎖系の仏教学のなかにあって、
神秘への開けを提唱する津田真一博士の学説は、
この上なく、重要な意味を持っています。

従来の学説でいくと、仏教はまるでニヒリズムであり、宗教ですらありません。

津田仏教学には、仏教再生の可能性が秘められているのです。




仏教が、私の国、日本の仏教学会において、これまでずっと支配的だった、
それ自体根拠のない思い込み、「仏教は神観念を立てない宗教だ」という思い込み、
さらに申しますなら、仏教=無神論の神話とは全く違って、
最初から神の立場、ゴータマ・ブッダの宗教でさえもその背後に、
神の存在を想定しないかぎりに正しくは理解できない、
そういう意味で徹頭徹尾、神の宗教であることは、
虚心にそのテキストに対するかぎり全く自明のことなのです。

実に、『法華経』は、現実の釈迦仏がそれであり、且つ、
われわれ人間が「すでにそれなのである」と言われるところの、
いわば等身大の仏の背後に存在している巨大な、宇宙大の如来、
すなわち、神としての如来の「存在」を、その現実相、すなわち、「実相」においていう経典、
さらに言うならば、その神としての如来の存在の「印」としての経典なのであり、
そしてその場合、「一乗」の規定はその神としての如来の「加持」、
まさにK・バルトのいう「神の臨在」の事態における、
われわれ人間の生のすでに絶対的に肯定されている現実と、
しかも、そのわれわれ人間の一人一人のその生が、
神の側の必然性によって、神に向って規定されているという、
まさに、神と人間との対応を「表現」するものに他ならないのです。

私たちは、今、ここで、この世界の上の一点に現存していますが、
これは、その神話的設定によるなら、われわれが、それぞれ、
無始時来ずっと連続してきたわれわれの輪廻の生の連鎖の、
目的論的な終局の位置に置かれているのだ、ということを意味しております。
そして、この輪廻的生の連鎖の全過程は、その神の目的論にもとづいた行為によって、
完全にカヴァーされているのだ、というのです。
この地上に存在しているわれわれ個々の人間のそれぞれの生は、
その神、釈迦牟尼如来の目的論によって、その無始なる始源以来一貫して支配され、
その遠大な目的論の終局、として、今、ここにあるのです。

『リグ・ヴェーダ』の「原人の歌」における、
あの悪名高い(なぜなら、その讃歌こそがカースト差別の源泉とされていますので…)、
プルシャ、すなわち、宇宙大のアントローポスです。
そのプルシャは、私のいうAB二世界説において、
而一而二なるその二世界の全体をその「身体性と生命」とし、
その上に「眼」の原理において超出した神です。
実は、『法華経』の法身釈迦牟尼如来ないしは、
「寿量品」の久遠実成の釈迦も、
密教の大日如来も、浄士教の阿弥陀如来も、
はてはキリスト教の「神」も、そのプルシャなのです。
その巨大な、宇宙大のプルシャを仮に大プルシャと称するなら、
その二世界のうちのB世界の内実をなすわれわれ個々の人間は、
それぞれ小ブルシャと称すべきものです。
プルシャとは、本来、人間・アントローポスを意味する言葉であるからです。
そして、まずA世界そのものである大プルシャは、
われわれB世界の全体の上に加持=現臨しており、
且つ、われわれ個々の小さな人間、小プルシャ一人一人の上に、
それぞれその宇宙大の存在性の全体を挙げて現臨しております。
われわれ小プルシャ一人一人は、それぞれ、
その大プルシャと一対一に対応しているのです。


「反密教学」




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