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2008.11.17 永遠なるもの
近代仏教では、輪廻転生が殆ど無視されています。

昔は、わが国でも、「袖振り合うも多生の縁」と、
不思議な過去世からの繋がりが信じられていたものでした。

輪廻を認めてしまうと、
何らかの霊的主体を認めざるを得なくなり、
近代の合理主義的仏教学にとっては、都合が悪いのです。

しかし、わが国に伝わる大乗仏教においても、
この輪廻は中核をなす思想であり、その主体についてももちろん説かれています。

私達は、無常なる存在ではあるけれども、
そのなかにあって変わらないもの、
清浄なる心、ダイヤモンドの心、仏性、如来蔵を宿している永遠不滅の存在なのです。


世尊よ、衆生のうちにあるところの如来の因子、
すなわち如来蔵は生死輪廻する場合のよりどころでございます。
世尊はかつて、『輪廻の初めはきわめ難い』と説き定められましたが、
それは、実はこの如来蔵を主題としたものでございます。
如来蔵があるからこそ輪廻が成立する、といえば、これは理に適っております。
ここで、輪廻とは、われわれが前の身に受けた諸感官が働きを失って、
別の諸感官を新たに身に受けることを輪廻と申すわけでございます。
この、死と生という二つのことをあらわす、輪廻という名は、如来蔵の同義語でございます。
ところで、世尊よ、この、死といい、生ということは、世間の常識的な言い方でございます。
死とはこれ、感覚器官の機能停止、生とはこれ、新しい感官の発生でございます。
ところが如来蔵には、生も死も、滅も起もございません。
何となれば、如来蔵は、縁起の法則に基づく生滅変化を特質とする存在の限界を超え、
常住・不変・静寂・永続的でございます。
それゆえに、世尊よ、如来蔵は、法身と本質的に結合し、不可分離であり、
またさとりの智と切り離せないところの、真実絶対の諸存在にとって、
よりどころ、支え、基盤たるものでございます。


「勝鬘経」




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