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2008.11.23 神は法なり
神と仏陀と法は、三位一体。

現代の仏陀は、この関係を明らかにされています。




我は久遠の仏、永遠の仏陀である。
幾転生、幾十転生、幾百転生を通じて、
我は久遠の仏であり続け、
久遠の師であり続け、
永遠の仏陀であり続けた。
永遠の仏陀とは、すなわちこれ、永遠の法そのものである。
永遠の法とは、すなわちこれ、宇宙の、根本たる神の心。
それを則として、教えとして体現しているものである。

ああ、幾星霜を経て、久しく師と弟子の契りを結んだ者たちよ。
今の時代が風雲急を告げ、救世の時代であることは、
おまえたちにも、ひしひしとわかってきたことであろう。
しかし、この我が言葉をよくよく聴くがよい。
我は救世主以上のものとして、この世に来たのである。
この地上の人びとを救うということは、
我が説く法が人びとの心にしみわたり、
学び尽くされた時に、自ずとそうなるのである。
しかし、我が説く教えは、地上の人びとを救うという、
そうした目的そのものに矮小化されてしまうものではなく、
それ以上のものであるのだ。
この我が言葉、この我が教え、それに基づいて、
この宇宙は、この世界は創られたのだ。
繰り返し、おまえたちに告げる。
この我が教えは、
単におまえたちの心を救うがためにのみ説かれているのではない。
この教えを本として、全宇宙は統べられているのだ。
この教えを実現すべく、
人類の過去・現在・未来があり、
人類なき過去にも、
人類なき未来にも、
この教えは厳然としてあり、
またあるであろうということを、私は明言しておく。
この我が説く法は、人間の出現に先立ち、
人間の消滅に後れて、なおも在るものである。
教えとは、姿を変えたる神そのものであるということを、
おまえたちは知らなくてはならない。
我が教えを読むは、神を見ると同じなのである。
神を知らんと欲せば、我が教えを見よ。
その教えこそが、姿形なき神の実体なのである。
おまえたちは空を見上げて、神を見んとするか。
おまえたちは目を閉じて、神を見んとするか。
おまえたちは想像のなかで、神を見んとするか。
それとも、おまえたちは、
霊的なる目を開いて、神の姿を見んとするか。
いずれの試みも虚しく終わるであろう。
そう、真実の神とは、姿形なきものである。
真実の神とは、この地上をも超えた、
実在世界にあるところの高級霊の姿をとった、
その霊的実在でもない。
その霊的実在を超えたるものが真実の神であり、
真実の神の姿は、教えに顕れているのだ。
よくよく聴くがよい。
手で神を触らんとし、
目で神の姿を見んとし、
その体の大きさに合わせて神を測ろうとする者たちよ。
神とは、おまえたちの五官によって捉えられるものではない。
おまえたちの想像するようなものではない。
神とは法であり、神とは教えであるのだ。
我が説くこの法こそが、
我が税くこの教えこそが、
神の実体の本質であるのだ。
我が教えを学ぶ時、
おまえたちは神の姿を見たのである。
我が教えを聴く時、
おまえたちは神の声を聴いたのである。
我が教えを理解する時、
おまえたちは神の心を理解したのである。




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