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2008.11.25
近代仏教の変容
日本仏教は、近代化の過程で大切なものを失ってしまいました。
反省は少しずつ始まっていますが、何としても霊性の復興を果たさなければなりません。
この点についての優れた論文の一部です。
サイコセラピー、ヒーリング(癒し)、ホスピスとターミナル・ケアー、
瞑想を通しての自己の意識や身体の変容、精神共同体のネットワーク形成、
核問題や平和運動、環境問題といった西欧における現在の仏教の動きが、
対応しようとしている諸問題はほとんどすべて、1970年代以降、
日本でも急速に対応を迫られる問題として登場してきたものばかりなのである。
それに対して一方ここで、日本における戦後の仏教の動きを振り返ってみると、
まず戦後から高度成長期までは、都市化の流れのなかで、一方では、
創価学会・霊友会・立正佼正会等の新宗教の伸びに見られるように、
仏教近代改革運動が戦前において切り捨てた貧・病・争からの現世利益的な救済を願う、
民衆の宗教性や、霊の世界などの目に見えない生命に対する土着的信仰が、
すくいあげられて復興してくるという動きが見られた。
それに対して、仏教近代改革運動の流れを汲む既成仏教側の都市化への対応としては、
「家の宗教」から「個人の宗教」への転換をめざすような形で、同朋会運動(浄土真宗大谷派)、
門信徒運動(浄土真宗本願寺派)、おてつぎ運動(浄土宗)、一隅を照らす運動(天台宗)、
などのさまざまな運動が生み出されてきた。
だが、これらの運動は総じてすべて、
結局は、寺檀制度という「家の宗教」の基盤に立つ寺院の側が押し進めざるを得ないという、
自己矛盾を克服することも、
また、現世利益や霊の世界への土着的な信仰を有効な形で取り入れていく、
という方向を取ることもなく、下火になっていったのである。
その後、オイルショック以降の高度産業管理社会、あるいは高度消費社会、
あるいは心の時代においては、創価学会等の新宗教が「現世利益」路線から、
「生きがい」路線へと変更を行うが、その教勢が拡大するということはもはやなかった。
それに対してむしろ勢力を伸ばしたのは、自己の意識や身体の変容による自己拡充や、
宇宙意識への目覚めや、死後の世界の強調などの、
神秘的・呪術的な非合理性を強調するような形の新新宗教のほうだったのだ。
このように戦後の西欧における仏教の動きと、
日本における仏教を中心とする宗教の動きとを対比してみると、
西欧における仏教の動きと、日本における新新宗教、
およびそれを支えた「精神世界」の動きとが、
顕著な同時代的共通性を持っていることが見えてくる。
たとえば、自己の意識や身体の変容による自己拡充や、
宇宙意識への目覚めといった神秘主義的傾向などがそうである。
そして、この共通性が注目に価するのは、それが、西洋と東洋あるいは、
西欧近代文明と東洋精神文明というこれまでの対立軸を越えるような同時代性を持って、
立ち現れてきているという点にある。
そして、このことはまた、この二つの動きが中世的な宗教と近代的な科学、
という対立軸をも越える可能性を持って立ち現れてきているという点とも結びついている。
すなわち、この種の動きがともに、サイコセラピーやヒーリングなどとも結びついていく、
ということに見られるように、トランスパーソナル心理学や、
ホリスティック医学などのニューサンエンスの動きとも密接にからみあっており、
その意味で、これまでの宗教と科学といった対立的な枠組みのなかに、
収まりきらないものをそのなかに含み込んでいるばかりか、
近代科学的世界観がこれまで提示してきた日常的現実が持つリアリティーを越えた、
もう一つのリアリティーを提示しうる可能性をも秘めているのである。
確かにもちろん、このような神秘主義的傾向を持った動き(欧米では、
「ニューエージ運動」と呼ばれ日本では「精神世界」と呼ばれる)のなかからは、
アメリカでは人民寺院や天国への門といったカルトや、
日本ではオーム真理教といった新新宗教という、
センセーショナルな事件をまきおこしたものも生み出されてきている。
だがそれにもかかわらず、もし宗教が人間にとってこれからも必要なものであり、
かつ宗教のなかにこれまでのような近代を越える可能性を見いだそうとするならやはり、
西洋と東洋および宗教と科学というこれまでの対立軸を越える可能性を含んだ、
このようなかなりの危うさをも伴う動きのいずれかに、
宗教の未来を見いださざるを得ないだろう。
すなわち、アジアの仏教近代改革運動が一方で犯してしまった愚、
つまり、宗教的世界が持っていた目に見えない生命に対するリアリティーを成り立たせる、
感性的な土着的基盤を前近代的な迷信として、自ら進んで切り捨てていったという、
愚に似たことを再び繰り返さないためにも、可能性とともに危うさをも含むこの種の動きを、
なんとか市民社会の中に軟着陸させていく方向に、
これから進んでいかなければならないだろうと思われる。
そして、日本をはじめとするアジアの仏教もまた、
欧米における近年のこのような宗教の動きや前述の仏教の動きと、
これからも無縁でありつづけることはできないはずだと思えるのである。
島岩「西欧近代の出会いと仏教の変容―仏教の未来に関する一考察」
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反省は少しずつ始まっていますが、何としても霊性の復興を果たさなければなりません。
この点についての優れた論文の一部です。
サイコセラピー、ヒーリング(癒し)、ホスピスとターミナル・ケアー、
瞑想を通しての自己の意識や身体の変容、精神共同体のネットワーク形成、
核問題や平和運動、環境問題といった西欧における現在の仏教の動きが、
対応しようとしている諸問題はほとんどすべて、1970年代以降、
日本でも急速に対応を迫られる問題として登場してきたものばかりなのである。
それに対して一方ここで、日本における戦後の仏教の動きを振り返ってみると、
まず戦後から高度成長期までは、都市化の流れのなかで、一方では、
創価学会・霊友会・立正佼正会等の新宗教の伸びに見られるように、
仏教近代改革運動が戦前において切り捨てた貧・病・争からの現世利益的な救済を願う、
民衆の宗教性や、霊の世界などの目に見えない生命に対する土着的信仰が、
すくいあげられて復興してくるという動きが見られた。
それに対して、仏教近代改革運動の流れを汲む既成仏教側の都市化への対応としては、
「家の宗教」から「個人の宗教」への転換をめざすような形で、同朋会運動(浄土真宗大谷派)、
門信徒運動(浄土真宗本願寺派)、おてつぎ運動(浄土宗)、一隅を照らす運動(天台宗)、
などのさまざまな運動が生み出されてきた。
だが、これらの運動は総じてすべて、
結局は、寺檀制度という「家の宗教」の基盤に立つ寺院の側が押し進めざるを得ないという、
自己矛盾を克服することも、
また、現世利益や霊の世界への土着的な信仰を有効な形で取り入れていく、
という方向を取ることもなく、下火になっていったのである。
その後、オイルショック以降の高度産業管理社会、あるいは高度消費社会、
あるいは心の時代においては、創価学会等の新宗教が「現世利益」路線から、
「生きがい」路線へと変更を行うが、その教勢が拡大するということはもはやなかった。
それに対してむしろ勢力を伸ばしたのは、自己の意識や身体の変容による自己拡充や、
宇宙意識への目覚めや、死後の世界の強調などの、
神秘的・呪術的な非合理性を強調するような形の新新宗教のほうだったのだ。
このように戦後の西欧における仏教の動きと、
日本における仏教を中心とする宗教の動きとを対比してみると、
西欧における仏教の動きと、日本における新新宗教、
およびそれを支えた「精神世界」の動きとが、
顕著な同時代的共通性を持っていることが見えてくる。
たとえば、自己の意識や身体の変容による自己拡充や、
宇宙意識への目覚めといった神秘主義的傾向などがそうである。
そして、この共通性が注目に価するのは、それが、西洋と東洋あるいは、
西欧近代文明と東洋精神文明というこれまでの対立軸を越えるような同時代性を持って、
立ち現れてきているという点にある。
そして、このことはまた、この二つの動きが中世的な宗教と近代的な科学、
という対立軸をも越える可能性を持って立ち現れてきているという点とも結びついている。
すなわち、この種の動きがともに、サイコセラピーやヒーリングなどとも結びついていく、
ということに見られるように、トランスパーソナル心理学や、
ホリスティック医学などのニューサンエンスの動きとも密接にからみあっており、
その意味で、これまでの宗教と科学といった対立的な枠組みのなかに、
収まりきらないものをそのなかに含み込んでいるばかりか、
近代科学的世界観がこれまで提示してきた日常的現実が持つリアリティーを越えた、
もう一つのリアリティーを提示しうる可能性をも秘めているのである。
確かにもちろん、このような神秘主義的傾向を持った動き(欧米では、
「ニューエージ運動」と呼ばれ日本では「精神世界」と呼ばれる)のなかからは、
アメリカでは人民寺院や天国への門といったカルトや、
日本ではオーム真理教といった新新宗教という、
センセーショナルな事件をまきおこしたものも生み出されてきている。
だがそれにもかかわらず、もし宗教が人間にとってこれからも必要なものであり、
かつ宗教のなかにこれまでのような近代を越える可能性を見いだそうとするならやはり、
西洋と東洋および宗教と科学というこれまでの対立軸を越える可能性を含んだ、
このようなかなりの危うさをも伴う動きのいずれかに、
宗教の未来を見いださざるを得ないだろう。
すなわち、アジアの仏教近代改革運動が一方で犯してしまった愚、
つまり、宗教的世界が持っていた目に見えない生命に対するリアリティーを成り立たせる、
感性的な土着的基盤を前近代的な迷信として、自ら進んで切り捨てていったという、
愚に似たことを再び繰り返さないためにも、可能性とともに危うさをも含むこの種の動きを、
なんとか市民社会の中に軟着陸させていく方向に、
これから進んでいかなければならないだろうと思われる。
そして、日本をはじめとするアジアの仏教もまた、
欧米における近年のこのような宗教の動きや前述の仏教の動きと、
これからも無縁でありつづけることはできないはずだと思えるのである。
島岩「西欧近代の出会いと仏教の変容―仏教の未来に関する一考察」



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