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2008.11.25 神への道
西洋文化はイエスの教えを規範としてきました。

その愛の精神は、普遍性がある故に、
現在でも、キリスト教徒は全世界に20億人いるといわれています。

仏教徒はどうして、人間イエスを正当に評価することが出来ないのでしょう。

神への道は、悟りへの道であり、神にとっては西洋も東洋もないのです。




二つのヴァージョンのイエス―大ざっぱにしかわからない歴史的人物と、
抽象的な神学的創作物―は、わたしにとって悲しむべき性格のものです。
なぜなら、それらはある大切なものを奪ってしまっているとわたしは思うからです。
その大事なものとは、人々に「神の意識」への到達の仕方を教えたイエスです。
自ら述べていたように、
イエスが本当にひとりの救い主であった可能性をわたしは指摘したいと思います。
唯一の救い主、唯一無二の神の子ではありません。
むしろイエスは、最高レベルの悟りを体現したのでした。
彼はそれを述べ、それを教え、それを将来の世代に伝えることに、
成年後の短い人生を費やしたのでした。
イエスは、人々に「神の意識」への道を示すことによって、世界を救おうとしたのです。

ブッダの言葉に「わたしを見る者はわたしの教えを見る」というのがあります。
同じことがイエスにも言えました。
彼は「キリストの意識」の内に生きていました。
彼の教えは、自分自身の「自覚」から直接発せられていたのです。
イエスはわたしたちに、悟りへの道を示すことができました。
「だから、あなたがたの天の父が完全であられるように、
あなたがたも完全な者となりなさい。」(マタイ、5・48)

悟りと意識の開発とは、キリスト教の概念ではなく、
東洋の概念であると考えられています。
インドでは、大勢のグルや霊的指導者が、
一般の人々に悟りにいたる方法を教えようとしてきました。
しかし、霊性を東洋と西洋に分かつのは偏狭な地方根性にほかなりません。
インド人は、外からやって来て古代のヴェーダの教えの最良の部分をかすめ取り、
ヨーガを週末のエクササイズ教室に変えてしまうよそ者を軽蔑します。
西洋人は、外からやって来てイエスを神の唯一の子と見なさず、
ブッダやムハンマドと同類の教師と称するよそ者を軽蔑します。
ひとたび教条的なカトリック教やヒンドゥー教の枠の外に出ると、
両者に重大な欠陥があることがわかります。
意識は普遍的です。
「神の意識」というものがあるとすれば、それから排除される人はひとりもありません。
同じように、「神の意識」の独占を図ることはできません。
イエスが最高の悟りに到達していたとしても、
なぜ彼はこの点に関して唯一無二の存在でなければならないのでしょうか? 
ブッダもイエスと同列にあるかもしれません(何億もの信者がそのように信じています)。
明らかに、イエスは自分自身について地方根性的な見方をしていませんでした。
ひとりのユダヤ人であり、ひとりの教師ではありましたが、
彼は自分を普遍的な観点からとらえていました。
実際、彼は、自らの出現を世界史における最も重要な出来事―その意義は、
人類の時間ではなく、神の時間においてのみ評価され得る―と見なしておりました。
イエスは時間を超越して思考しました。
そして二千年ののち、彼は自ら意図したとおりに、わたしたちの同時代人として存在しています。


ディーパック・チョプラ「ザ・サード・ジーザス」




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