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2008.11.27 イエスと瞑想
瞑想は何の為に行うのか、どういう意義があるのか、
という問いに現代の唯脳論的立場からは、答えることは出来ません。

ヨガも禅定もメディテーションも霊的成長には不可欠な行です。

仏教でもキリスト教でも、それは同じことなのです。




キリスト教徒であっても、神に達したいと願う探求者であれば、
仏教徒とほとんど変わるところはありません。
どちらも、その人自身の意識へと導かれています。
しかし、イエスの置かれている文化的背景は、
ブッダの場合のような瞑想の伝統ではありませんでした。
イエスは、祈り、信仰、認識を強調しました。
聖書の中には、イエスが弟子たちを瞑想の実践に導いた証拠はありません。
ユダヤ教の伝統と調和するのは、むしろ礼拝の方でした。
しかし、イエスを「伝統的人間」というふうに描いてしまうと、イエスがたびたび、
「神がどこにいるか知っている」と言う者たちを叱責しているのを無視することになります。
イエスの見るところ、
「神がどこにいるかは神秘であって、知的に考えているだけでは知り得ない」のです。
これは「悟り」と調和します。
悟りとは、単に内面的でも外面的でもなく、その両方であるような変容のことです。
こうした変容においては、現実を「こちら」と「あちら」に分かつ境界線は曖昧となり、
ぼやけ、最終的には消滅します。
現実が二元性から統一性へと変わるのです。
これが起こると、内面的事象と外的事象との関係が根本的に変化します。
結局のところ、奇跡とは精神の意図に従属させられた外界にほかなりません。
イエスを導師(グル)の同類と見なすことは可能でしょうか?
この見方には、確かに心を動かすものがあります。
内的変容に関する最も詳細な知識はインドに生まれ、
イエスの何千年も前まで遡る歴史を有しているからです。
イエスの思想とヴェーダの伝統を関連づける研究もあります。
また、イエスがインドを訪れていた、
あるいはインドの商人と接触をもっていた可能性を指摘する見解もたくさん存在します。
内面生活についてのイエスの教えははっきりしません。
福音書記者はこの領域に広大な空白を残しました。
彼らと初期教会の教父たちのおかげで、そのあとキリスト教は、
自己変容より礼拝を、瞑想より祈りを、内面的成長より信仰を重視することになりました。
しかし、一つだけはっきりしていることがあります。
イエスはこう明言します。
「普通の人が天の国に入るためには、ある種の内面的な大変革が生じる必要がある」と。


ディーパック・チョプラ「ザ・サード・ジーザス」




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